近所の床屋

坊主頭ということもあり、バリカンを使って自分でやるか近所の床屋に向かう。

 
そこは家族で経営する床屋で、80そこそこの親父さんと女将さんに、40半ばほどの息子さんの3人でやっている。バーバーチェアは3席で、奥から親父さん、女将さん、息子さんが使うことになっている。
 
殆どは息子さんに刈ってもらうのだが、これが大変に良い。バリカンで入念に刈り、ハサミの仕上げもキッチリしている、とても丁寧な仕事なのだ。中でも洗髪後に大きな手で施される絶妙な力加減のヘッドマッサージがとても気持ち良く、初めて行った時には良い店を見つけたと興奮気味に家内に報告してしまった。
 
ある日曜日の、昼をちょっと過ぎた頃、時間が空いた事もあって床屋に行こうと思いたった。店に行くと先客が1人、女将さんが接客している。息子さんの姿はなく、親父さんに案内された。何度か来ているが親父さんに刈ってもらうのは初めてのことだ。
 
6ミリで、と親父さんに伝えるとバリカンを持ち出し入念に刈る。ハサミもキッチリだし、長さを見る時の動きも息子さんと全く同じである。これが「この家のやり方」か、とスタンダード探しが楽しくなってきた。
 
隣席の先客が勘定をしていると、女将さんが「パソコンでやってるからよくわからないのよね、迷惑なのよ」と愚痴をこぼした。確かにモニターには電源が入っていないようだ。今日は休みなのかもしれないな、と思っていると、先客は女将さんに案内され勝手口より母屋に向かっていった。業者か何かだろうか、5分もすると帰っていった。
 
洗髪が終わり、いよいよヘッドマッサージかと思いきや、肩周りだけ床屋らしいマッサージをされて終わってしまった。どうやらヘッドマッサージは息子さんのオリジナルサービスだったらしい。
 
こうやって新たなスタンダードが生み出されていくのかと勝手なことを考えていると、妙齢の女性がやってきて女将さんが接客することになった。ちょっと驚いたものの、近所に住んでいるのだろうか、女将さんとは調子良く会話をしているし、良いロコネスを感じた。
 
爆笑問題の日曜サンデーをBGMに、顔に剃刀を当てられながら、聞くともなく聞こえる隣の会話に違和感を覚えた。
 
「店は閉じてしまうのかと思った」
「ご主人がまだ働けるから良かった」
「息子さんにはお客さんが一杯付いてたから残念ね」
 
どういうことだろうか。息子さんは独立でもしたのだろうか。あるいは引っ越しすることにでもなったのか。会話の前提を探っていると、ふっと気がついた。
 
たぶん、息子さんは亡くなったのだ。
 
先客が母屋に向かったのは線香をあげに行ったのだろう。PCの使い方を教える間も無いほどには急な出来事だったのかもしれない。
 
やる意味もないドライヤーをかけられ「お疲れさまでした」の声で席を立つ。息子さんの定位置にそっと目をやる。何も変わりのない、これまで通りの配置のままだ。いっそ聞いてみようと思ったが、言葉が出なかった。
 
勘定を済まし外で煙草を吸っていると、献花向きにまとめられた花束を持った女性が店に入っていった。とても近い日の不幸だったようだ。もしかしたら昨日まで店は閉めていたのかもしれない。
 
煙草の火を消して歩き始めると、どっと涙が溢れてきた。俺も遺された人の気持ちがわかるくらいには年を取った。
 
家内と新宿で落ち合うなり開口一番、床屋に行った割には随分と剃り残しがある、と言われたのでペタペタと触ってみる。なるほど、鼻の下と首元の当たりが甘い。
 
「いいんだよ、今日は」
 
ヘッドマッサージはなくとも、これからも近所に床屋があることだけが嬉しいじゃないか。